年表(長いです…)

01
1966年:生まれたときから笑顔満開。

1966年6月9日(0歳)
ビートルズが来日した年のロックな日、福岡県遠賀郡芦屋町で生誕
聡子(あきらこ)という名は母の命名。この名前は、親からの生命の次の2番目の贈り物だと思っている。

1970年頃(4歳)
福岡から、家族ともども東京に移住

つまり「なんちゃって九州人」だが、九州人ということに誇りを持っている。なのでぜったいに「福岡県遠賀郡芦屋町出身」とプロフィールに書いている。

 

02
1972年:幼稚園の頃から、女の子らしいことより野球を好む一風変わった子どもでした。

1973年3月(6歳)
私立弦巻幼稚園たちばな組を卒園

卒園の時に、くじらの子どもがお母さんを探して七つの海を駆け巡るという自作の絵本を、幼稚園に寄贈する。現存するかは不明だが、これが処女作。

1973年4月(6歳)
世田谷区立松ヶ丘小学校入学

1974年頃(8歳)
広島に縁もゆかりもないのに、なぜか広島カープのファンに

その後幾度となく、野球やカープに基づいて、人生の選択をしている。間違いなく、自分の人生を大きく左右したできごとその1。

1975年10月15日(9歳)
広島カープ球団創設25年で初優勝

赤ヘルフィーバーが社会現象に。生涯広島ファン確定。

03
1976年:学校でも赤ヘル!当時野球帽被ってる女子は皆無だったので、知らない人からはよく「ボク」と呼ばれてました。

1977年(10歳)
フィギュアスケート世界選手権が東京で開催される

フィギュアスケートとの出会い。佐野稔と松村充の演技に感動。

1978年頃(12歳)
自分のお小遣いで初めてレコードを購入

ABBAの「Dancing Queen」今でもカラオケの持ち歌。

1979年春(12歳)
世田谷区立松ヶ丘小学校卒業/世田谷区立弦巻中学校入学

中学の柔道部は当時日本一の強さを誇り、一個下にはあの「背負いの古賀」が!

 

 

04
1977年:「11」歳のバースデープレゼントは、カープの背番号「11」大ファンの池谷投手とのツーショット!今でも忘れらない誕生日。

1982年春(15歳)
世田谷区立弦巻中学校卒業/都立青山高校入学

青山高校に入ったのは、ほんとうは当時高校野球の強かった桜美林高校に行きたかったところ、親から
「そういう理由で進路を決めるのはやめてくれ。頼むから高校は都立に行ってくれ。大学は好きなところに行っていいから」と言われたので「定期券で野球を観に行ける」という理由から、神宮球場の目の前の青山高校を志望校に変更。ただし青山高校は難関で、中学の担任に「高校浪人は出したくない」と言われてしまう。そこで中3の11月より、中1からの全教科書をひっぱり出し、都立の受験日までの日数でページ数を割り、夜を徹して死にもの狂いで勉強。
合格後「人間、やってやれないことはない」と実感。その後の税理士試験の受験時にも、この時の原体験が大いに役立った。
自分の人生を大きく左右したできごとその2。

1982年夏(16歳)
野球観戦三昧

東都大学野球、東京六大学野球、プロ野球と観戦しまくり。当然、成績は急降下。特に理数系についていけなくなり、広島大学(国立)への進学を早々に諦める。

1984年2月(17歳)
サラエボ五輪

アイスダンス、トービル&ディーンの「ボレロ」を観て感動。フィギュアスケート熱再燃。

1985年春(18歳)
都立青山高校卒業

野球三昧&原宿に近い立地ということで、まったく勉強をしない3年間。留年を出したくない先生の好意?で、赤点連発するもなんとか卒業。いまだに定期的に、高校の数学のテストを受けている悪夢にうなされている。

1986年春(19歳)
法政大学法学部法律学科入学

「大学は好きなところに行っていい」という親の言葉を逆手にとり、当時日本で一番野球が強かった大学へ入学。晴れてミスター赤ヘル・山本浩二の後輩に。ところが私の入学を境に法大野球部はプチ低迷期に突入。在学中は六大学で一度しか優勝できなかった(T_T)

1987年春〜1988年春(20〜21歳)
失恋と「税理士」との出会い

大学の先輩と付き合ったが、彼は二股かけていた。そして恋敵は税理士を目指していた。「税理士」という資格を人生で初めて意識した瞬間。この時彼に「私も税理士目指そうかな」とカマかけてみると「何言ってるの?税理士って難しいんだよ。あきらこちゃんにはムリだよ!」と衝撃のひと言。そして結局彼は、恋敵のほうを選ぶ…。
ちなみにこの「彼」、私の現在のパートナーである(笑)。

1988年2月(21歳)
カルガリー五輪

伊藤みどりの演技に感銘を受ける。ショートプログラムでのカウンターから即座に跳ぶ豪快なダブルアクセルに痺れた!今でも大好きなスケーター。もっと評価されるべき日本人の一人ですよ…。

1988年10月19日(22歳)
「10.19」

大学の授業をサボり「一度はプロ野球の優勝決定の瞬間を観てみたいものだ」と、川崎球場へ。ロッテvs近鉄のダブルヘッダーを観戦。これがあの伝説の「10.19」となる。家に帰ったら母が「あんた、知ってる?川崎球場が大変なことになって…」と大興奮。そして今現在まで「実は私、現地に行っててね…」とは言えていない。

1989年夏(23歳)
就活

スポーツジャーナリズムへの憧れを抱き、スポーツ新聞記者(プロ野球番)を目指すも、当時女性の記者は皆無だったため撃沈。マスコミ志望で就活をしていたため、東京ニュース通信社に内定をもらう。

05
1990年:大学時代。私?右ですよ、右!(驚)水泳やっていたのと遊びまくっていたのとで、こんがりあんぱん色。

1990年春(23歳)
大学留年

ただし学生時代、もう一つ「漫画家になる」という夢も抱いていた。親に「大学在学中にデビューできたら漫画家になってもいい」と言われていたので、モラトリアムを一年延長すべく計画留年。ゼミ教授・内定先人事にこっぴどくお叱りを受ける。
特に東京ニュース通信社のみなさま、申し訳ございませんでした。

1990年秋(24歳)
夢破れ再就活

漫画家デビューならず。夢破れ、某大手スーパーへの就職を決める。

1991年3月(24歳)
法政大学法学部法律学科卒業

大学もヘロヘロの成績で卒業。ちなみに税法も選択していた。「源泉徴収制度について述べよ」という問題に「サラリーマンの給与から税金を引くこと」と堂々一行で解答。もちろん不可。

1991年4月(24歳)
某大手スーパー入社

無類の食いしん坊だったせいか、食品部農産課にアシスタントバイヤーとして配属される。

就活前後よりバブル崩壊。就活時は「わが社に来てください」とぺこぺこアタマを下げていた会社から、入社後「お前たちが一番使えない世代だ」と手のひら返しのような仕打ちうちを食らう。しかしこれは会社が非情なのではなく、学生時代遊びまくり、これといった技能を身に着けていなかった自分も確かに悪い。
また、社会人になったら仕事で充実感を味わえなければ、プライベートも含めて人生がまったく楽しくなくなることを痛感。
「ああ、もう一度学生に戻れたら、勉強を必死にするのに。そして、仕事に役立つ知識や技術を身につけるのに」と、ここで生まれて初めて自分の半生を激しく後悔。
閉塞感いっぱいの新卒後2年間を過ごしたことは、自分の人生を大きく左右したできごとその3。

1991年秋(25歳)
広島カープ6度目のリーグ優勝

まさかこの後、こんな長く優勝できなくなるとは…。

1993年1月(26歳)
某大手スーパー退職

年末のかきいれどきに虫垂炎をこじらせ入院。会社に迷惑をかけいたたまれなくなったこともあり、これをきっかけに退職。

1993年3月(26歳)
税理士受験を決意

「このままではダメ人間で人生終わってしまう」「一度勉強を必死にしてみたい」「仕事ができる人間になりたい」という思いから資格取得を思い立ち、図書館で「○○になるには」系の本を読み漁る。そこで改めて「税理士」という資格に目が止まる。「大学生の頃の恋敵が目指していた資格じゃないか!」
ここで、税理士資格取得を決意。こう書くと安直だが、自分を変えたい・人生やり直したいという気持ちは真剣そのもの。

1993年3月(26歳)
フィギュアスケート世界選手権(プラハ)

男子シングルで優勝したカート・ブラウニングのフリーの演技に大感激。自分史上ナンバー1の名演技。旧採点時代ならではの美しい余白と余韻に満ちた素晴らしいプログラム。この演技により、生涯スケオタ確定。

1993年3月〜8月(26〜27歳)
税理士事務所就活

実務経験ナシ、簿記3級も合格していない。あるのは「税理士目指します!」という気合いだけ。50事務所ほど面接を受けたがど、ほとんどの事務所が「おとといおいで」で心が折れそうになる中、真摯に対応する事務所もあり救われる。この経験から、自分は誰に対しても「税理士を目指し始めたその日から同業者」と思い接することを心がけている。

1993年6月9日(27歳)
ご成婚&ロックな日に簿記検定受験

雅子様ご成婚に日本が湧いたこの日、日商簿記3級・2級を受験。両方とも満点で合格。この日は奇しくも私の誕生日。会計人生原点でもあるこの日は、まさに第2の誕生日。

1993年9月(27歳)
会計人生スタート

上田英子税理士事務所就職。そして、O原簿記学校で税理士試験の勉強スタート。この時から合格まで、野球もフィギュアスケートも、一切の観戦(現地・テレビ・ラジオ)を断つ。なので私は、江藤・金本・前田・野村・緒方が揃って活躍しているところをろくに知らず、新人時代のキラキラした小林幹英を知らず、幸いなことに11.5ゲーム差をひっくり返されたメイクなんちゃらも記憶無し(笑)。

1993年9月〜1994年8月(27〜28歳)
税理士試験1年目

簿記論、固定資産税受験。まだ税理士試験の怖さを知らず、安穏と合否発表を待つ。

1994年12月(28歳)
両科目とも不合格

実は税理士を目指すと家族に伝えたところ、親戚含めてみなに反対された。というのも、高校・大学とろくに勉強しなかった私。「難関国家資格にチャレンジするだけお金と時間の無駄」と親が思うのもムリはない。そこで出された条件が「一年目で合格科目が出なければ、そこで受験を諦めろ」。
そして一年目合格科目ゼロ…。親に反対されても未成年ではあるまいし、なんとかして続けるつもりではいたが、家族の応援や同意無しでこの資格の勉強を続けるのは、さすがに辛い。ところが、ここで親は「受験をやめろ」とはひとことも言わなかった。結果は出なかったけれど、毎日机に向かって勉強をしている姿勢は伝わったんだ、きちんと評価してもらえたのだと、気づく。親を日々の姿勢で認めさせることができたのが、合格科目ゼロだったとはいえ、翌年以降の自信となる。
1年目の受験がうまくいかなかったことで、翌年以降へのガッツもでた。私の性格だとここでポロっと合格してたら慢心していたに違いない。
受験一年目に泣いたことが、結果的に良かった。自分の人生を大きく左右したできごとその4。

1995年2月(28歳)
庄田和雄税理士事務所に転職

上田英子先生に基礎を叩き込まれ、庄田和雄先生からは、事務所運営・顧問先の心をつかむ術・税務調査立ち会いのテクニック・所長としてのあり方を教わる。そしてお二方とも、受験勉強をする時間も実務経験も両方とも与えてくれた。改めて感じることは、私は勤務先に恵まれていた。そしてまだまだお二方は超えていない。いつかお二方を超えることが恩返し。

1994年8月~1995年8月(28〜29歳)
税理士試験2年目

周囲の「よせばいいのに」の声を押し切り、簿記論、財務諸表論、消費税法にチャレンジ。受験当日、猛暑で当時冷房も無い中、1日で3科目受験。最後の消費税法のときは合格したいという執念より「早く試験時間よ終わってくれ」との気持ちのほうが強かった。

1995年12月(29歳)
簿記論合格

最初の一科目があけた!ばんざい!ただし、財務諸表論・消費税法不合格。喜びから数分も立たないうちに「1勝2敗か、、、ちくしょう」と闘志に火がつく。

1995年8月~1996年8月(29〜30歳)
税理士試験3年目

財務諸表論、消費税法、固定資産税にチャレンジ。O原簿記学校の財務諸表論の先生は元甲子園球児でとてもかっこよく、毎週朝から女子たちの最前列争奪戦が凄かった。これをきっかけに早起きになったのかも。

06
1996年:カープがメークドラマに敗れたこの年。受験勉強に没頭していたので実感は無し(苦笑)。仕事も楽しくなってきた頃。

1996年12月(30歳)
消費税法・固定資産税合格

初の科目合格マルチ達成。ただし財務諸表論は不合格。元甲子園球児の先生に見とれていて授業がおろそかになったわけではなかったのだが。

1996年8月~1997年8月(30〜31歳)
税理士試験4年目

財務諸表論、法人税法にチャレンジ。重い科目を二つ残した上、一気にリーチを狙ったことで、勤め先のボスに「君は税理士試験を舐めてる」と言われ奮起したことも今では良き思い出。

1997年9月(31歳)
公認会計士2次試験の勉強を開始

税理士試験の受験中、すっかり勉強の面白さにハマり、官報合格の結果を待たずして公認会計士の受験勉強を始める。
結果は合格はならなかったが、二年弱、会計士になるつもりで本気で勉強した。会計士受験をとおして出会った良き友人たちと、原価計算・監査論・商法・民法など税理士受験で学べなかった知識は、その後の自分の財産。
自分の人生を大きく左右したできごとその5。

1997年12月(31歳)
税理士試験官報合格

財務諸表論・法人税法に合格し、税理士試験官報合格!公認会計士の勉強が続けられることも、とても嬉しかった。
※税理士受験時代の話は、こちらに詳しく書いています。
http://kimutax.livedoor.biz/archives/cat_50016657.html

07
1998年:税理士合格祝賀会にて固定資産税の小林先生と。ちなみに小林先生もカープファン。

1998年頃(31歳)
初めてのウェブサイト

「あきらこの生涯一会計人」という、野村克也の「生涯一捕手」のパクりタイトルのウェブサイトを立ち上げる。これでHTMLやITの知識をひととおり身に着ける。また、このサイトがそこそこの人気を得たことが、その後の執筆活動等の原点に。

1998年4月(31歳)
税理士登録

登録番号86192。なんとか1999年7の月の前に間に合った。しかしその後世界が滅亡しなかったことは、ご存知のとおり。

1998年~2000年(31歳〜33歳)
税理士としての夢

会計士の受験勉強をしながら、税理士と会計士両方の知識が生かせる仕事がしたいという気持ちが高まり、会う人・会う人に「草創期のベンチャー企業支援の仕事がしたい」とふれまわる。

2000年5月(33歳)
夢がかたちに

3月頃「ベンチャー起業上場支援コンサルの会社が、外注で仕事を請け負ってくれる税理士を探している。ひいては木村さんを推薦したい」と知人より話がある。会計士の勉強中であったことと、漠然と「独立開業は40歳くらいかな」というイメージを抱いていたので悩むが、またとないチャンスと独立開業を決断。担当していた3月決算をすべて完了させた日、事務所に退職を申し出る。

2000年9月(34歳)
独立開業

港区田町に事務所を構える。なぜ田町にしたかというと、カープの試合を観に行くのに、ドーム(水道橋)にも神宮(外苑前)にもハマスタ(横浜)にも片道30〜40分で行けるから。ただし開業して2年間は、とても観戦する心身的・時間的余裕ナシ。

2002年12月(36歳)
イラストレーターデビュー

公認会計士・山田真哉さんの「女子大生会計士の事件簿」のイラストを担当。学生時代の漫画家の夢が少し実現した気分を味わう(^^)山田さん、その節はありがとうございました。

2003年5月(36歳)
事務所移転

事務所を田町駅前から都営三田駅前に移転。東京ドームに通うのにちょこっとラクになったせいか、この頃からカープ戦観戦熱が復活。

2004年春(37歳)
mixiを始める

軽い気持ちで日記を書いていたら、内容に反響があり、すっかりハマる。mixiで出会った友人たちとは、その後仕事上でつながったり、クライアントになって下さったり。人脈を大きく広げるきっかけとなった。でも、そういう下心はなく、当時はただただ純粋に、色々な方と出会えることを楽しんでいただけだった。

2004年夏頃(38歳)
初めての連載

税経セミナー(税理士受験誌)で消費税法講座の連載を開始。3シーズン担当する。

2005年4月(38歳)
週刊エコノミスト2005年4月11日号「会社法革命」

執筆メンバーとして、かなり力を入れて原稿を書いた。税経セミナーの連載とエコノミスト寄稿以降、専門誌への執筆依頼が定期的に来るように。

2005年10月(39歳)
税金ブログスタート

仕事でスランプぎみになり行き詰まりを感じていたこの頃。mixiや執筆の仕事で文章を書くことに目覚めたこともあり、税金がテーマのブログを開設。税金の話題を一日一つアップすることで、税理士という仕事を見つめ直したいと考えてのことだった。このブログこそが、kimutax カフェ(きむカフェ)(旧『税金まにあ』)

「税理士」である自分を見つめ直したくて始めたこのブログが思いがけず評判となる。特に同業者からの反響が大きかったことにびっくり。一時期、税理士会の研修等に行くと、隣の席の知らない方からも「税金まにあブログの木村さんですよね」と声をかけられるほどだった。これにより、自分に少なからず「ものごとを伝える力」があることに気づく。
自分の人生を大きく左右したできごとその6。

2005年〜2006年(38〜40歳)
講師デビュー

エコノミスト「会社法革命」の執筆メンバーということで、この時期、中小企業向けの新会社法セミナーを年に数十本こなす。大勢の人の前でもまったく緊張しない性格だったのと、子どもの頃からものごとをシンプルにして説明するのは得意だったので、講師の仕事にハマる。これをきっかけにセミナーの仕事もコンスタントにいただけるように。

08
2006年:赤アフロを被って応援するというスタイルの発案者として、カープのブラウン監督から旧市民球場で表彰を受けました。数少ない表彰歴の一つ(笑)。

2006年3月(39歳)
第1回税務会計系ブロガーサミット開催

税務会計系ブログをやっているメンバーで「確定申告の打ち上げでもやりましょう」ということになり、洒落っ気で「税務会計系ブロガーサミット」という大げさなイベント名をつけて参加者を募集したところ、東京銀座に日本全国から40名近いブロガーが集結。

その後、東日本大震災で一度の中断があったものの、現在でも続く息の長いイベントとなる。このイベントから派生した同業者間のアライアンスも多数。このことでネットの力と可能性を実感するとともに、しがらみのない「緩やかな横のつながり」の重要性と、そういったつながりを若手の同業者が求めていることに気付く。
自分の人生を大きく左右したできごとその7。


2006年5月31日(39歳)
広島市民球場で表彰

この年「ALL-IN大賞」と称し、球団が熱烈なカープファンのグループを、毎月一組球場で表彰。この日「廣島赤アフロ隊」が表彰されたが、この赤アフロ隊、東京から赤アフロを被って応援に来た私の姿を面白がり、一部の広島のファンが応援スタイルとして取り入れたのがはじまりだった。そこで「廣島赤アフロ隊」の方が親切にも、表彰式に私を呼んで下さったのでした。感謝!

2007年秋(41歳)
LLP藤原KAIZEN研究会

ブロガーサミットでのご縁から、藤原KAIZEN研究会のメンバーとなる。この会は「会計人は、会計書類から計算して数字をつくるだけではなく、数字を読み取り、経営の現状を分析し、具体的な行動計画を提示するところまでが使命」という考え方のもとに行動する、若手会計人の集団。今もここの仲間には、公私に渡り支えられてばかり。

2008年7月(42歳)
「その時会社が動いた」を共著で出版

藤原KAIZEN研究会のメンバーとして執筆に携わる。前作「起業を成功へと導く経営コーチ」は校正のお手伝いをしただけだったので、この本が出来上がった時は、やっと胸を張って「共著です」と言える本を世に出せたと喜びもひとしお。

2008年10月(42歳)
税理士法人化

個人事務所から、税理士法人へ改組。法人経営に注力すべくブロガーとしての過去を捨て去ろうと思い、ブログの更新を停止し「税金まにあ」の過去記事を全削除。今となってはもったいない、というか、大バカとしか言いようがない暴挙(汗)。

2010年7月(44歳)
タスク管理に目覚める

Toodledoというウェブツールを使うタスク管理法をスタート。以来、毎日継続中。

2011年6月(44歳)
再独立(ひとり事務所経営)

東日本大震災後、税理士法人を退社し、自宅のそばにひとり事務所を開設。一人でやるのだから、誰の目も気にせずこの際めいっぱい特色を出そうと、内装をカフェ風に。名刺等のCIも「思いっきり税理士事務所らしくなく」とオーダー。そのわりに業務については「特色を出した」とは言い切れず。一人で税理士事務所を運営していくことの難しさを味わう。以来、試行錯誤の2年半。

2012年8月(46歳)
松浦弥太郎さんとの出会い

「松浦弥太郎の仕事術」を読む。冒頭目に飛び込んできた「仕事とは自分を役立てること」のフレ一ズにノックアウト。その後、半年で松浦弥太郎氏の入手可能な著作物を全部読破。

2013年6月(46歳)
土下座と健太と経済学

藤原KAIZEN研究会の共著「土下座と健太と経済学」出版。
足かけ3年がかりで制作を進めていた小説仕立ての経済入門書。私はストーリー作りやキャラ設定を担当。ほとんどの登場人物の名前がカープの選手のパロディ(笑)。産みの苦しみも味わったが、この本をきっかけに「税理士として、自分にしかできないことを思い切りやってみよう!」という意欲が高まる。

2013年12月(47歳)
ウェブサイトオープン

「私という税理士」「私の事務所」「私という人間」が皆さんに提供できる「価値」を、より多くの方に具体的に知って頂くために、このウェブサイトをオープン。

現在にいたる。

これからの予定(野望)

2014年(47歳)
個人名義での著書の出版

2015年(49歳)
小説(純文学)を執筆。

2026年(60歳)
税理士引退後、広島に移住。

2027年(61歳)
広島カープの公式戦全試合のおっかけをする。

2028年(62歳)
前年のカープ全試合観戦記を自費出版。お世話になった人たちに配りまくる。

 

(御礼)年表は以上です。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。